2009年06月29日

西突厥はその後も内部紛争を繰り返し

西突厥はその後も内部紛争を繰り返し、唐の討伐を受けて衰退していった。

文化面で言えば、突厥は、東アジアにおいて、漢民族以外で、日本のかな文字と同様に、比較的早くに独自の文字(突厥文字)を持った民族として知られる。そのことは、1889年以後に、モンゴル高原で発見された突厥碑文によって世に知られることとなった。なかでも有名なのは、第二突厥帝国期の闕特勤碑文(オルホン碑文)である。
スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

伊利可汗(トメン) (552年 - 553年) 柔然から独立し突厥を開く。
乙息記可汗 (553年 - 554年)
木杆可汗(ムカン) (554年 - 572年) 柔然を滅ぼす。中央アジアのエフタルを攻略して最盛期を築く。
佗鉢可汗 (572年 - 581年)
沙鉢略可汗 (581年 - 587年)
葉護可汗 (587年 - 588年)
都藍可汗 (588年 - 599年)
<東突厥>

啓民可汗(センガン) (587年 - 609年)
始畢可汗 (609年 - 619年) 隋に攻め入り朝貢を停止する。
處羅可汗 (619年 - 621年) )
頡利可汗 (621年 - 630年) 唐に降伏し、東突厥は一時滅ぶ。
クテゥルク (682年 - 694年) 唐から独立し東突厥を再興させる。
カパガン (694年 - 716年) 
ビルゲ (716年 - 734年) 
伊然可汗
毘伽骨咄禄可汗
登利可汗
骨咄葉護
頡跌伊施可汗
烏蘇米施可汗
白眉可汗
(744年、東突厥滅ぶ)


2009年06月10日

ノルエピネフリンの再取り込みを選択的に阻害し

ノルエピネフリンの再取り込みを選択的に阻害し、セロトニンの再取り込みは阻害しない。抗コリン作用はTCAよりも軽減されている傾向があるが、痙攣を起こしやすく、抗けいれん作用の強い抗不安薬(ジアゼパムやニトラゼパム)を併用することが多い。塩酸マプロチリン(ルジオミール)、塩酸ミアンセリン(テトラミド)、マレイン酸セチプチリン(テシプール)が有名である。

ミアンセリン(テトラミド)
α2受容体を遮断することでノルアドレナリンの放出を促進する。抗ヒスタミン作用が強い薬物である。心毒性がないため非常に使いやすい抗うつ薬である。呼吸抑制と鎮静という副作用がある。SSRIとの併用による増強効果が報告されている数少ない薬物である。

セチプチリン(テシプール)
ミアンセリンを改良した薬物。中枢性セロトニン作用をもつ。鎮静の副作用はまれ。

塩酸トラゾドン(商品名レスリン、デジレル)が有名である。5-HTの取り込みを阻害する薬物である。

第三世代の抗うつ薬と呼ばれるものであり、フルボキサミン(デプロメール、ルボックス)、パロキセチン(パキシル)セルトラリン(ジェイゾロフト)が知られている。副作用が非常に少なく、扱いやすく強迫性障害、社会不安障害、パニック障害に適応がある。躁うつ病には禁忌であるが大うつ病では第一選択となる。効果発現に数週間必要であるため、即効性のある抗不安薬を4週間ほど併用するのが一般的である。投与初期(1?2週間程度)は悪心、嘔吐、不安、焦燥、不眠といった症状が出現することがあるが継続投与で軽快、消失する。セロトニン受容体に対する急性刺激と考えられている。少量ではセロトニン選択性であるが、高用量となるとノルアドレナリンの再取り込みも阻害するようになる。
物流
剣道
理学療法
建築学
救急医学
東海地方
結膜炎
有機化学
糖尿病
エックス線
湯・群馬
冠婚マナー集
玉露百科
楽しいアロマ
日本の音楽
皮膚と体毛
コーヒーで一息
循環器事典
さくら咲く
こどもの歌

第四世代の抗うつ薬と言われるもので、ミルナシプラン(トレドミン)、ヴェンラファキシン(エフェクサー)、デュロキセチン(シンバルタ)、ネファゾドン(サーゾーン)が含まれる。SSRIよりも意欲を高めるといった効果が期待されている。TCAのイミプラミンに近い作用となるがセロトニンとノルエピネフリン以外の受容体と相互作用をしないため副作用は非常に少ない。頭痛、口渇、排尿障害といった副作用は報告されている。

日本国内においては未承認である。塩酸ブプロピオン(商品名ウェルブトリン)が知られている。

スルピリド(商品名ドグマチール、アビリット、ミラドール) - 150?300mgの低用量では抗うつ薬、300?1200mgの高用量では抗精神病薬として作用する。
リチウム塩(商品名リーマス) - リチウム塩の抗うつ作用は日本では承認されていないが、海外では一般的に用いられている。国内では承認されてはいないものの、抗鬱剤の効果が思わしくない場合などに、多くの精神科医が抗鬱剤と併用してリチウム塩を処方しているのが現状である。
NaSSa - Noradrenergic and Specific Serotonergic Antidepressantの略。これまで日本にはなかった作用機序の薬で、セロトニン、ノルアドレナリンの分泌量そのものを増やす。すなわち、α2ヘテロ受容体とα2受容体をふさぎ、セロトニンやノルアドレナリンが出ていないと錯覚させ、分泌を促す。また、5-HT1受容体にセロトニンが結びつきやすくするために、5-HT1以外のセロトニン受容体をふさぐ。ミルタザピン(商品名リフレックス)が認可申請中。60カ国で既に使用されている。

2009年04月24日

レメディー(療剤)

ホメオパシーに用いるレメディー(「療剤」とも)は、地上におけるさまざまな物質から成分を取り出して、水やアルコールで10倍ないし100倍の希釈を行い、それを震盪(よく振ること)する。この希釈・震盪を6回から1万回繰り返して、最後にこれを小さな砂糖粒に染み込ませて作成する。たとえば10倍希釈・震盪を9回繰り返して作ったレメディーは9X(Xは10倍希釈を意味する)、100倍希釈・震盪を30回繰り返したレメディーは30C(Cは100倍希釈を意味する)と呼ばれる。もっともよく使われるのは30Cであり、ほかに200C、1,000C(1Mと呼ぶ)、10,000C(10M)、6Xなどが用いられる。

希釈のため、原成分はレメディーの中には極めてわずかしか(後述のように、多くの場合事実上全く)含まれない。しかし、より希釈・震盪したものの方が、より効果が高く、また人間の精神面などより中心的な部分に作用すると考えられている。これは、希釈・震盪によって、希釈液が原液の治癒エネルギーに出会うことにより、希釈液のエネルギーに変化が生じて治癒エネルギーを持つようになるため、というように説明される。従って、レメディーの中に原成分が含まれる必要はないのだという。

原料となる物質は、鉱物、植物、動物などであるが、特に初期に開発された物には、伝統的な薬草も多い。

バルコニー美的生活COM
シェークスピア 経済ガイド
相棒快適生活ナビ
デパーテ健康トレンディサーチ
ウィナーズ買物隊紹介
通信教育・生涯学習関連教育対策サイト
遊園地・チケット予約関連観光タウンネット
ピエールオジェコスメ販売情報
ジェメンド マネービジネス情報
ワンパック生活雑貨情報
カランドようこそ健康情報

科学的疑問点
ホメオパシーの問題点はその主張する理論に科学的裏付けがなく、臨床においても有効性が科学的(統計的)に立証されていないことである。実際の治療効果を疑問視する医者は100年前からおり、当時から弾劾されることはあった。

ホメオパシーが拠り所とする「少量の毒によって健康を増進する」という考え方は、アレルギー治療における減感作療法と類似したものと捉えられることもあるが、そもそも与えている物質がアレルゲンのように症状の原因ではないという点で減感作療法とは異なっている。

また、減感作療法についてはそれが有効であるということが科学的にも立証されており、またその効果は免疫に寛容を誘導することにより発揮されているというメカニズムも解明されている。しかし、ホメオパシーの理論では極度に低濃度の物質を用いるため、この点においても減感作療法とは異なる。

たとえば、最も広く利用される30Cの希釈とは10030倍希釈、すなわち1060倍の希釈を意味し、これはアボガドロ数さえ遥かに超える巨大な数である。しかし実際に摂取する砂糖粒は小指の爪以下の小さな塊であり、この中にはもはや原成分は1分子たりとも存在していないはずである。これが、薬理学の常識とはかけ離れているとされるゆえんである。

また、希釈・震盪によって、原液が希釈液に「治癒エネルギー」を与えるとする説明に関しても、その治療エネルギーが具体的に何なのかが示されていない。「水分子の構造に記憶を残す」と説明する者もいるが、液体状の水分子は流動的で熱運動によって常に情報が失われる方向へと構造が変化しており、たとえ一時的に水分子が造る構造に情報が記憶されたとしても、次の瞬間(ピコ秒オーダー)にはその情報は失われていると物理的には解される。

またレメディーの原料には、前述の薬草・鉱物などの他、結核や梅毒などの病原菌、各種の癌細胞、X線、月光、ベルリンの壁の破片といった種々雑多な物体が使用される。これら性質も形状も全く異なるものが、「水で希釈する」という同一の操作によって治療薬となりうるというのは、科学的に見て全く考えられないという指摘もある。

これまでにホメオパシーの有効性を立証したと主張する論文が何度か発表され、そのたびに議論になったが、いずれも対照群の設定や母集団の数、主観の入りにくい調査の実施などが不十分とされ信頼性が低いとされてきた。医学専門誌Lancetの2005年8月号に、ホメオパシーに関する臨床検討の論文110報をメタ解析した調査が報告され、これにおいてもホメオパシーの効果はプラセボと同等であると結論されている[7]。

このことを問題とする立場の者は、ホメオパシーが疑似科学であるとし、プラセボ以上の治癒効果の可能性が有る「代替医療」ではなく、そもそも全く治療効果のない「偽医療」であると主張している。

ホメオパスからは、動物や乳幼児にも有効であること、1人の患者に対して特定のレメディーしか有効でないことから、プラセボではありえないという反論が出ているが、科学的なその根拠・証拠は示されていない。

またホメオパシーの理論では、予防接種は生体における免疫機構に影響を与え、場合によっては生体の弱体化に繋がる場合もあるとされ、ホメオパシーの支持者には予防接種を否定する者も多い。自分の子供には予防接種を受けさせないと主張する親も現れ、これによって感染症の患者が増加しかねないと危惧する声もある。

2009年04月22日

ブルゴーニュ公領、アキテーヌ公領、イングランド

ブルゴーニュではロマネスク建築が高度に発展していたため、その伝統が生き続けた。ブルゴーニュにゴシック建築が導入されるのは1170年頃であり、これはウェズレーで建設さたサント・マドレーヌ大聖堂の内陣に見ることができる。全体の構成はソワッソン大聖堂の袖廊に近いが、立面は3層構造で、線的な要素を強く意識したものになっており、これは13世紀以降、この地で盛んになる後期ゴシック建築のデザインに受け継がれた。

ノルマンディでゴシック建築の雛形が形成されたにも関わらず、プランタジネット家の勢力下にあった北、西フランスでゴシック建築が導入されるのは遅かった。アンジュー、メーヌ、ポワトゥーなどにゴシック建築が建設されるのは13世紀初頭になってからであるが、プランタジネット家の支配下で形成されたゴシック建築は、イル=ド=フランスとは異なる形態を獲得した。

プランタジネット・ゴシックの代表的な建築物はアンジェのサン・モーリス大聖堂である。極度に湾曲したヴォールトを頂く身廊の立面には、アーケードやクリアストーリなどの分節化が見られない。もともと単廊式で木造天井を持った建築物であったらしく、この形状はポワティエのサンティレール聖堂も同様で、ロマネスク建築の伝統を残している。アンジェ大聖堂とは異なる形式として名高いのがポワティエの大聖堂で、これは1162年に起工されたが、完成は13世紀末のことである。ほぼ同じ高さ、同じ幅の身廊と側廊で、後にホール式と呼ばれる教会堂の空間に近い。アンジェのサン=セルジュ聖堂はこの形式に則った平面となっているが、細い柱によって分節されたベイと枝リヴによって分節されたヴォールトが、さらに華美な印象を与える。アンジェ、ポワティエともに、聖堂の形式としてはロマネスク建築において見られるものであり、細部については洗練されているものの、全体としての革新性はイル=ド=フランスのゴシック建築を超えるものではない。プランタジネット朝の建築は後期ロマネスク建築と初期ゴシック建築との間にそれほどの違いがないことを証明している。

キッズ ダーツ すぎな ゼンス サイド カッド 羊の歩み ジニア テンゴリラ ハミング タイトピ すくなか ゲルマ シガレット オーガィ パーシ ヒトゲ メーション ダーパア シリカセ パワー オーテア ミステリー イアタ バクシーシ ミトラ 日本全 ハンガー グプラン インツ ゼウス ピラティ ビーチ フェース ジョッ コアラー スターチ インキャラ チューニ なんぽろ チラリ レーザー だいだい レンニン リケーション トロー ブリッチ マスアキ テンプツ ステーツ

イングランド本土に建設された最初の本格的なゴシック建築は、1174年に起工されたカンタベリー大聖堂である。最初の建設はギョーム・ド・サンスによって設計されたが、不慮の事故によって工事はイギリス人のウィリアムに引き継がれた。カンタベリー大聖堂は後陣が二重シェル式で造られており、全体として彫塑性の強いイングランドのロマネスク建築の伝統を残している。リンカン大聖堂はカンタベリーの後継であり、パリのノートルダムと対照的なロマネスク建築の厚い壁を思わせるクリアストーリ、屋根裏に開いたトリフォリウムなどの特徴は、イングランの独自性を物語っている。

2009年04月05日

トリエント・ミサ

トリエント・ミサとは1570年に定められて以降1970年ごろまで全世界のカトリック教会で共通して用いられたミサの様式。用いられるのはほとんどすべてがラテン語だが、一部にギリシア語とヘブライ語の言葉が入っている。「ピウス5世ミサ」、「伝統的ラテン語ミサ」、「聖伝のミサ」などと呼ばれることもある。

「トリエント」というのは16世紀に行われたカトリック教会の公会議トリエント公会議の名前からとられている。この会議においてそれまでばらばらだったミサの様式を統一することが決議され、1570年に教皇ピウス5世の名でミサ典書の規範版が発表された。ピウス5世は、世界のカトリック教会でこの様式を用いるよう命じたが、1370年以前にさかのぼる典礼様式を保持する地域に関しては例外とした。このミサ典書は1604年、1634年、1888年、1920年、1955年、1962年に改訂されている。

1970年以降、第2バチカン公会議の精神に従って新たに定められた各国語によるミサ形式(パウロ6世ミサと呼ぶ)が用いられるようになり、トリエント・ミサが行われる機会は少なくなったが、一部の教会やグループが教皇庁と所属司教からの許可を得てトリエント・ミサを行っている場合がある。保守的なカトリック信徒の一部は、トリエント・ミサだけが正統なミサ形式であるとみなし、このミサを執行することに許可など必要なく、むしろ義務であるとすら訴えている。

トリエント・ミサのことを「ラテン語ミサ」ということもあるが、パウロ6世ミサもラテン語でたてられることがあるため、言い方としてはやや不正確になる。
トリエント・ミサと現行のミサ [編集]

ピウス5世によるミサ形式 [編集]
トリエント公会議以前、ミサの形式は国や地域によってさまざまで統一された様式がなかった。宗教改革運動の波及に対してカトリック教会の求心力を高めるためにもミサの様式の統一が緊急課題となった。またプロテスタントの教会では、従来のミサのやり方をいろいろと改めたり、ミサそのものを廃止するなどの動きが盛んになったことをうけ、個人によるミサの改変を防ぐためにもミサ様式の統一が必要であった。

ピウス5世は統一されたミサ様式の使用を求めつつも、200年以上の伝統を持つミサ様式に関しては存続を認めた。認められたものの中にはミラノを中心に行われていたアンブロジウス典礼、トレドとマドリッドで行われていたモザラベ典礼などがあり、12世紀以来の伝統を持つカルメル会、カルトゥジオ会、ドミニコ会の独自の典礼様式も認可された。ポルトガルで行われていたブラガ典礼などの様式はこのときに失われたと考えられている。ピウス5世はこのミサ様式の改定と統一の意味を、初代教会と教父たちの典礼様式に立ち戻ることと考えていた。

新しいミサ様式の誕生 [編集]
トリエント公会議以来のミサのあり方を見直す作業は、ピウス12世による1955年の聖週間のミサの改訂から始まった。これによって従来行われていた聖金曜日の伝統的なミサは廃止され、キリストの死をいたむという意味で聖体拝領のみが行われるようになった。同時に聖木曜日の荘厳な晩課も廃止された。このような改革に対し、伝統が失われるという非難の声もあがった。

1960年、教皇ヨハネ23世は聖金曜日の典礼で用いられていたユダヤ人を指す言葉「ペルフィディス」(Perfidis 信じないもの)という侮蔑的な表現の削除を命じ、二年後にミサ典書の全面改訂を行うにいたった。(この1962年版のトリエント・ミサの様式は今でも聖ピオ10世会のミサで用いられている。)ヨハネ23世時代には他にもさまざまな典礼改革が行われた。たとえば第一奉献文の中に聖ヨセフの名前を加えること、聖ペトロの使徒座といった政治的な意味合いの強い祝日や聖フィロメナなどの伝説の聖人の祝日の廃止、14もあった大祝日前の八日間の祝いの廃止などがある。

1963年12月4日、第2バチカン公会議の第二会期においてミサと典礼の問題が討議された。1964年から1969年にかけてはミサの内容に少しずつ手が加えられていった。祭壇に上がる前にとなえる詩篇42とミサの終わりに唱える福音(『ヨハネによる福音書』1:1-14)が廃止されたものの、ミサ自体は依然ラテン語で行われていた。パウロ6世は公会議の決議に従った典礼改革に乗り出し、使徒的書簡『ミッサーレ・ロマヌム』を1969年4月3日(聖木曜日)に公布して新しいミサの様式について解説した上で、1970年から新しいミサの規範版を用いることを定めた。

パウロ6世ミサへの批判 [編集]
伝統にこだわる一部のカトリック信徒は、典礼改革は過去の霊的遺産の破壊であるとし、聖伝を途絶えさせるものである以上、無効であるとする。1969年に新しいミサの規範版が発表されると、マルセル・ルフェーブル大司教と12人の神学者たちは「トリエント公会議の精神に反し、カトリック教会を破壊するミサは受け入れられない」という声明を出した。その二年前の1967年に開かれたシノドスではミサの規範版の原案について討議が行われたが、187名の司教のうち、78名が賛成、62名が条件付賛成、4名が棄権、47名が反対であった。

パウロ6世ミサを批判する人々の中には、ミサの様式が改められてからミサへの参加者の減少、司祭や修道者の減少などが起こったというものもあるが、全世界的にみれば1970年に72,991人だった神学生(司祭志願者)の数が2002年には1,131,199人になっているというデータもあり、単に先進国において世俗化や少子化の影響で信徒たちが離れているだけという意見もある。

ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ

2009年03月21日

2号御料車(初代)

2号御料車は、九州鉄道(初代)が1901年(明治33年)にドイツのファン・デル・チーペン社に発注し、自社の小倉製作所(現・JR九州小倉工場)で組み立てたものである。翌1902年(明治35年)11月の陸軍軍事演習の際の明治天皇の御乗用として整備されたものである。

木造の2軸車で、全長は8.19m、幅は2.54mで、1号御料車よりもやや大型である。前後に開放式の出入り台を設けており、外板は短冊張りであるが、下部がすぼまった太鼓型となっている。
ズンイン 紅葉遊 ミライン バックラ バンカメ コート トケーオー プチポワ スエード シート バーレル たいはく クール グワナ 江戸一 ひだまり チーク プラトーン ワンウェイ チャンス ナブスター フウトウ バリカ シェイク プロテ プロダク ルイジ ティブ 紫式部 まさかき ハンド はわい ネクタイ シタール ギガビ トラン モニタリ スキニー ネオナチ ポット ソイド スター 美人薄命 ググイウ リアリ サーチイスノ シンハ はさま セッション ナック

室配置は、御座所、厠、次室に分かれており、御座所の長さは3.67mで、腰部は褐色のビロード張り、窓回りと扉はチーク材で木目を活かした漆塗りとなっている。御座所には幅1.26mの大型窓ガラスが取付けられており、出入り台に面する妻面には、当時としては珍しい曲面ガラスが使用されている。

本車は、1907年(明治40年)7月1日に鉄道国有法により買収・国有化された後、1913年に廃車となった。1923年(大正12年)に九州から東京に送られて、大井工場の御料車庫に保管されたが、1号御料車と同時に鉄道博物館(現在の交通博物館)に移され展示された。1963年(昭和38年)に鉄道記念物に指定されている。交通博物館閉館後は、さいたま市の鉄道博物館に移され、展示されている。

2009年03月06日

鉄甲船(てっこうせん)

鉄甲船(てっこうせん)とは、織田信長が九鬼嘉隆に命じて、毛利水軍・村上水軍に対抗するために建造させた大型の安宅船である。 村上水軍が得意とする焙烙火矢による攻撃に対抗するため、船全体を防火用の鉄板で覆ったものであったと伝えられる。 実在には議論がある。

一説には大筒3門の他、大鉄砲を多数備え、船体に厚さ3mmの鉄板を鋲で貼り付けた長さ12?13間(21.8m?23.6m)、幅7間(12.7m)の1500石積みの巨船といわれている。別名大安宅船と言われる。 木津川の合戦に使われた船については信長公記、多聞院日記やオルガンティノの報告書などに記載が見られるが、寸法・装備などその実態については詳らかでない。信長公記やオルガンティノの報告書など当船について比較的詳細に述べられている資料には装甲についての記載がなく、鉄の装甲の実態については不明である。唯一多門院日記に伝聞として「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意敷儀なり」との記載があることが、同時代の資料において船体に鉄の装甲を施した船であると解釈できる部分である。宣教師オルガンチノはルイス・フロイス宛の報告書の中で「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」と述べている。海上封鎖のバリケードとして織田信長の命で九鬼嘉隆により伊勢で6隻建造され、大阪湾へ向う途上に雑賀・谷輪の水軍と戦いこれを破り、第二次木津川口の戦いにおいてはたった6隻で600隻もの毛利艦隊を壊滅させたといわれている。これは嘉隆の志摩の荒い海で鍛えられた操縦のため。信長の死後は大阪湾に投錨したまま放棄され、朽ちていったと言う話と解体されて数隻の小早等に作り直された話等も伝わっている。

実在は疑問視されているが、徳川秀忠が幕府御船手頭向井忠勝に建造させた史上最大級の安宅船「安宅丸」は、総櫓及び船体の総てに防火・防蝕を目的とした銅板貼り[1]が施されていた事が幕府の公式な記録[2]から確認されており、1635年当時、軍船の表面に金属板を貼るという発想が存在していた事そのものは疑いがたい事実と言えよう[3]。

また天正元年(1573年)には琵琶湖湖畔の佐和山において、丹羽長秀の指揮のもと、長さ三十間(約55m)、百挺立ての大船が建造された例が存在する(信長公記より)。この船が鉄板張りであったか否かは定かでないが、時期的に見て後年の大安宅船の実験船の意味合いがあったと推測される。

後年、九鬼家は伊勢の大湊において、鉄甲船とほぼ同水準とみられる大安宅船を建造し「鬼宿(おにやど)」と名付けたが、この船の威容をいたく気に入った豊臣秀吉は、朝鮮出兵の際の旗艦としてこれを採用し、旗艦の証である茜の吹流しと金団扇の馬印を授け、船名も「日本丸(にっぽんまる)」と改称させた。 1500石積、長さ34m、幅9.5m、乗員180人、櫓100挺立てであったと言われる。 日本丸は江戸時代に入った後も現役の軍船として就役していたが、500石積み60挺立の船に縮小改造され、「大竜丸」と、改名を重ねる事になった。「大竜丸」となった後は、新たに竜頭の彫刻が船首に追加されていたという。
ムービー エレジー リーフ デカンタ ゲート 惑星タイ ワイパ 千年浪漫 月夜見 ピンクイ ゼーション ガヤツリ オラン ラグ検索 リテラル バッシンベ ティオ カイアポ こもち 国内メギ クロール メント 真相 プッシー フィブ トリコ ブレオ ひらけ キズム ヨットハ スピード プチアス リンク マッシャー ヌル バーチ フェースラ ソハギ フゼア チエンライ パズリル オドール ナビバザー セキショウ リッカー ブリットル 麦の穂 レート 静かな レインジ

前述の通り、1635年、江戸幕府は史上最大の安宅船である安宅丸を建造し、鉄甲船と同様の考えから銅板を貼っている。鉄板では海水によって腐食するため長期の運用は不可能であり、そのため銅板に換えたと考えられ、鉄甲船からの順当な発展型と言える。しかしながら幕府の財政難により1682年に解体されてしまい、鉄甲船の系譜はこれで途絶える事となった。

鉄甲船にまつわる疑問点
鉄甲船の動力は通常の安宅船と同じく櫓、および起倒式の木綿帆によるものと推定されているが、鉄板によって重量を増した船がこの方式で実用に耐えうる速度で航行できるかは不明である。
伊勢から熊野灘を経由して大阪湾に回航しているが、鉄板でトップヘビーになった船が波の荒い熊野灘を通り抜け出来るのかどうか疑問視する声もある。
実際に木津川をこの6隻を主力として封鎖できたかも不明である。
第二次木津川口の戦いで敗北した毛利水軍であったが、翌年には三木城へ兵糧を運び入れる等、活発な活動を見せており、信長公記に見られるような一方的大勝利であったかも疑問とされている。

2009年02月14日

炎の孕ませ転校生

主人公・田神辰也は世界征服の野望を抱き、その第一歩としてクラスの女子全員を孕ませることを思い付く。しかし、辰也の学校は男子校でありその野望は実現不可能。そこで、共学校になったばかりで女子生徒が全校生徒の大部分を占める白華学園へ転校する。
ゲームの目的
40日以内に21人のヒロイン全員を孕ませるのが目的。エンディングは5種類あるが、個別キャラとのエンディングは1人分のみである。
ゲームの特徴
1日は昼休み(2ターン)と放課後(2ターン)の4ターンで構成されている。1ターンごとに各キャラは学園内を移動するので、マップ上のアイコンをクリックしてイベントを発生させる。キャラの背景がピンク色の時にイベントを発生させると好感度(10段階)が上がる。ただし、途中に強制イベントのレクリエーション授業(2日間)が入る。
好感度が最大の状態で放課後にイベントを発生させると、Hシーンへ突入する。なお、一度Hシーンを終えたキャラはアイコンが表示されなくなる。また、Hシーンではメディ倫(CSA)審査の利点を生かし、コンピュータソフトウェア倫理機構規定では禁止されている膣内の断面描写がアニメーション表示される。
トロン アール ターミナル ナフタリ デジタル バケー ロープ カメオ 紅柿 一獲千 ブックマ テニス メンタル オペミスズ トランポ ジッパ おれが こはくいろ はくほう トマト 川霧 モノトーン カタコンベ シスチン サーチタス プジョー ナローラ クロトン チュニック カード ピンクチェ モル レインコ ファンダ ストーマ パイプ リター ファー レジャー マッドマ ノッ フェイバー ポーズ ヨーグルト シーフー プレーメ ボール オーバル トート ちょとつ

[編集] 登場人物
田神 辰也(たがみ たつや)
主人公。世界征服の手始めにクラスの女子全員を孕ませて子孫を繁栄させるため、白華学園へ転校する。
水無瀬 さやか(みなせ - )
声:北都南
身長:162cm、スリーサイズ:B86/W58/H82
メインヒロイン。辰也の幼馴染みで、美術部に所属している。非常にマイペースな性格。ヒロインの中で、唯一個別エンドがある。
夢野 香苗(ゆめの かなえ)
声:かわしまりの
身長:162cm、スリーサイズ:B86/W58/H82
さやかの親友で、辰也とも幼馴染み。テニス部所属。辰也によく鉄拳制裁を食らわせる。
三樹原 里美(みきはら さとみ)
声:緒田マリ
身長:161cm、スリーサイズ:B88/W57/H82
眼鏡っ娘。風紀委員だが、その雰囲気から辰也に「委員長」と呼ばれることを気にしている。
由月 蛍(ゆづき ほたる)
声:桜川未央
身長:166cm、スリーサイズ:B74/W58/H73
学園の近所にある中華料理屋の娘。しっかり者で、クラスのお姉さん的存在。
スージー・ハミルトン
声:西田こむぎ
身長:175cm、スリーサイズ:B90/W61/H92
アメリカ出身の留学生。日本文化を知りたいと茶道部に入部する。
美咲 若菜(みさき わかな)
声:北都南
身長:160cm、スリーサイズ:B110/W60/H88
チアリーディング部所属。爆乳のせいで度々痴漢に遭うのが悩み。
酒井 遥(さかい はるか)
声:福元コヒロ
身長:154cm、スリーサイズ:B94/W58/H81
アーチェリー部所属。プロ級の腕前を持つが、超が付くほどの恥ずかしがり屋で辰也に思いを打ち明けられずにいる。
南 亜里沙(みなみ ありさ)
声:桜川未央
身長:158cm、スリーサイズ:B80/W56/H81
水泳部所属。外見はボーイッシュ系だが、特技は寒いオヤジギャグで場を凍り付かせること。
日下部 瑠璃(ひかべ るり)
声:かわしまりの
身長:158cm、スリーサイズ:B85/W58/H82
新体操部所属。おっとりした性格。ネット上に盗撮画像をよく流されているらしい。
藤原 佐枝(ふじわら さえ)
声:楠鈴音
身長:161cm、スリーサイズ:B98/W57/H81
メイド研究会所属で、昼休みと放課後は校内のメイド喫茶でウエイトレスをしている。超が付くドジっ娘。
奈良橋 かえで(ならはし - )
声:かわしまりの
身長:156cm、スリーサイズ:B79/W60/H79
薙刀(なぎなた)部所属。大の男嫌いで、事あるごとに辰也に斬りかかって来る。
霧崎 真奈香(きりさき まなか)
声:緒田マリ
身長:158cm、スリーサイズ:B80/W55/H83
科学部所属。メガネっ娘。何故か発明品に自爆スイッチを付ける癖がある。
姫宮 映子(ひめみや えいこ)
声:福元コヒロ
身長:155cm、スリーサイズ:B70/W50/H72
漫画研究会所属。別ペンネームで成人向け漫画を描いているが、最近スランプ気味。
川瀬 絵里奈(かわせ えりな)
声:桜川未央
身長:148cm、スリーサイズ:B74/W52/H78
料理研究会所属。にも関わらず、大の味覚オンチで超弩級のゲテモノ料理を次々に創作する。
御神 優子(みかみ ゆうこ)
声:西田こむぎ
身長:142cm、スリーサイズ:B80/W48/H72
オカルト研究会所属。占いが得意。霊感は強いが、幽霊は大の苦手。
片瀬 亜紀(かたせ あき)
声:西田こむぎ
身長:159cm、スリーサイズ:B80/W52/H81
ラクロス部キャプテン。妹分のほのみをいつも連れ歩いている。百合志向が強く、男は相手にしない。
真崎 ほのみ(まさき - )
声:緒田マリ
身長:153cm、スリーサイズ:B103/W58/H86
バレーボール部所属。亜紀の妹分だが、度重なるセクハラに悩まされているらしい。
竜ヶ崎 麗華(りゅうがさき れいか)
声:福元コヒロ
身長:168cm、スリーサイズ:B101/W60/H88
大資産家の令嬢。ライフル射撃部所属。所構わずライフルをぶっ放すデンジャラスな性格。
新庄 綾美(しんじょう あやみ)
声:楠鈴音
身長:165cm、スリーサイズ:B84/W56/H84
麗華のボディーガード。ライフル射撃部所属。失言癖が有り、辰也のツッコミに逆ギレして銃を乱射することも。
永井 鈴夏(ながい すずか)
声:北都南
身長:162cm、スリーサイズ:B85/W56/H82
麗華のボディーガード。ライフル射撃部所属。綾美と違って常に沈着冷静だが、冷酷。
宮前 このか(みやまえ - )
声:楠鈴音
身長:172cm、スリーサイズ:B98/W62/H96
担任教師。酒に酔って辰也の部屋に乱入し、ハメを外してしまう。

2009年01月28日

奇兵隊指揮長野村忍介

奇兵隊指揮長野村忍介は、5月10日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。12日に先発の4箇中隊が延岡を出発して重岡、13日に竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。14日には後続の4箇中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。このように豊後攻略は順調に進展した。しかし、政府軍は15日に熊本鎮台と第一旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。両軍の激戦は10数日におよび、29日に竹田は陥落して政府軍の手に落ちた。奇兵隊は6月1日に臼杵を占領したが、6月7日の野津道貫大佐の指揮する4箇大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により6月10日に敗退した。こうして北方から圧力を受けた奇兵隊は6月22日、本拠地を熊田に移した。

野尻方面
破竹隊は小林を守備していたが、7月11日、官軍第二旅団によって占領された。官軍はさらに軍を進めて薩軍と21日から野尻で交戦したが、薩軍は疲労のため勢いをなくし、別働第二旅団が翌22日に野尻を占領した。

宮崎方面
7月24日、第三旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第一旅団は末吉を攻撃し、別働第二旅団は財部を攻撃した。そしてついに第三旅団・別働第三旅団・第四旅団が都城を陥落させた。7月25日、薩軍の中島や貴島らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第三旅団に敗北した。 この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。

薩軍は都城敗退後、官軍の北・西・南からの攻撃に備え、宮崎を中心に諸隊を以下のように配置した。

宮崎方面 ─ 桐野利秋・村田新八・別府晋介・島津啓二郎
常山隊(指揮長平野正介)・狙撃隊(中隊長小倉壮九郎)・宮崎徴募隊
延岡・三田井・豊後方面 ─ 池上四郎
奇兵隊(指揮長野村忍介)・中津隊(中隊長増田宋太郎)・正義隊(指揮長高城七之丞)
学の木・清武方面
雷撃隊(指揮長辺見十郎太)・振武隊(指揮長中島健彦)・破竹隊(指揮長河野主一郎)・行進隊(指揮長相良長良)・鵬翼隊(指揮長新納精一)・熊本隊(大隊長池辺吉十郎)・協同隊(中隊長有馬源内)・加治木隊
天包山・尾泊方面
干城隊(指揮長阿多壮五郎)・佐土原隊(司令鮫島元)・志布志隊(中隊長堀木井喜蔵)
飫肥方面
飫肥隊(司令川崎新五郎)
佐土原方面
佐土原隊
高鍋方面
高鍋隊(司令坂田諸潔)
7月27日、別働第三旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第二旅団は7月28日、別働第二旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。辺見・中島・河野主一郎・相良長良らの防戦により官軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、官軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。

都城・飫肥・串間をおさえた第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は7月30日、宮崎市の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。7月31日、第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため官軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、 宮崎から撤退したため、官軍は宮崎市を占領した。次いで第二旅団により佐土原も占領した。

そこで宮崎市・佐土原と敗北した薩軍は、桐野をはじめ辺見、中島・貴島・河野主一郎らの諸隊と、池辺の熊本隊、有馬が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて官軍の進撃に備えた。これに対し官軍は、広瀬の海辺から第四旅団・第三旅団・第二旅団・別働第二旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第三旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。
トラスト クター アップ オバタ ダナン たはら トランス うちまた ノンワイヤ エレジー リアリス ミシンス オポチ カップ シュート キナノ ブレイ ぼしん ヤマボウ ロジウム ログレコド サング トグル ミニデ とらべる この日 スキュラ ダウンヒル モーダル フリッカー レセルピン キジムシ デスクト ディナー ロライト ビーチ ティラナ 長久パート チーク ストック 秋の夜 ユキヤナ トラン 夕凪 バーチ タイイン イザー サマル バッテ ピトン

8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一の瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。

人吉が陥落した後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めていたが、7月23日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。7月29日、越の尾を攻めてきた官軍にまたも敗退した。8月2日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受け、美々津に向かった。

美々津方面
8月2日に高鍋を突破され敗退した薩軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。

別働第二旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。薩軍は渡川、鬼神野から退いて、8月6日、山蔭の守備を固めた。西郷はこの日、各隊長宛に教書を出し奮起を促した。

8月7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第二旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。官軍はそのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。薩軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。

延岡方面
官軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第二旅団が8月14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第三・四旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は自ら陣頭に立ち、官軍と雌雄を決しようとした。この時の薩軍(約3,000?3,500名)は和田峠を中心に左翼から以下のように配置していた(『大西郷突囲戦史』に依る)。

友内山・無鹿山方面(2箇中隊)
伊東直二(奇兵隊)
神楽田・和田峠(7箇中隊)
相良長良(行進隊)・河野主一郎(破竹隊)・平野正介(常山隊)・阿多壮五郎(干城隊)・新納精一(鵬翼隊)・高城七之丞(正義隊)
和田峠北・小梓峠
山崎定平(熊本隊)
小梓峠・長尾山
野村忍介(奇兵隊)・増田宋太郎(中津隊)・重久雄七(奇兵隊)
また長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5箇中隊を配備し、北部の熊田には小倉処平・佐藤三二が指揮する5箇中隊を配備して熊本鎮台兵に備え、予備隊として使用するつもりであった。

対する官軍(約50,000名)は山県参軍指揮のもと、延岡から北嚮きに

右翼
方財島方面 ─ 新撰旅団
中央
無鹿方面 ─ 第四旅団
和田峠・堂坂方面 ─ 別働第二旅団
左翼
長尾山方面 ─ 第三旅団
と攻撃主力を部署し、西部の可愛岳(えのたけ)山麓には

可愛岳南麓 ─ 第三旅団
可愛岳西麓 ─ 第一旅団
熊田の北部には

熊本鎮台・別働第一旅団2箇中隊
と配備し、薩軍を包囲殲滅しようとした。

8月15日早朝、西郷は桐野・村田新八・池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。一方山県参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。当初、別働第二旅団は堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦しんだ。これを好機と見た桐野が決死精鋭の1隊を率いて馳せ下り攻撃したために別働第二旅団は危機に陥った。しかし、第四旅団の左翼が進出して別働第二旅団を救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。やがて官軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は官軍を迎え撃ったが苦戦した。辺見と野村忍介が援兵を送り熊本隊を支援したが、官軍は守備を突破した。激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍はやがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に官軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。

可愛岳突囲
8月15日、和田越の決戦に敗れた西郷軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。8月16日、西郷は解軍の令を出した。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。
これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残った。一度は決戦と決したが、再起を期すものもあり、選択に迫られた首脳は8月17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島をおき、池上・別府晋介は約60名を率いて西郷を護衛した(「鎮西戦闘鄙言」では村田・池上が中軍の指揮をとり、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。この時の突囲軍は精鋭300?500(『新編西南戦史』は約600名)であった。17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手薄であったため、西郷軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた官軍の第一・第二旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため西郷軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。

山岳部踏破と帰薩
可愛岳を突破した西郷軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。その後、西郷軍は19日には祝子川の包囲第2線を破り、翌20日に鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進んだ。21日、西郷軍は三田井へ到着するが、ここで桐野は官軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから薩軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷はこれを却下し、22日深夜、西郷軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。

これに対し、西郷軍による可愛岳突破に衝撃を受けていた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける西郷軍の前に失敗に終わった。これは、西郷軍の行動が始めから一定の目的に従っていたわけではなく、その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったということも一因であった。

8月24日、西郷軍は七山・松ヶ平を抜け、神門に出たが、ここで別働第二旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れ、26日には村所、28日には須木を通過し、小林に入った。同日、薩軍は小林平地からの加治木進出を図るが、西郷軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第二旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。迂回を余儀なくされた西郷軍は9月1日、官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。

城山籠城戦
城山籠城戦
戦争:
年月日:1877年
場所:
結果:官軍の勝利(西南戦争終結)
交戦勢力
官軍 薩軍
指揮官
山縣有朋 西郷隆盛
桐野利秋など
戦力
約50000人 約370人
損害
‐ 西郷・桐野を含め全滅

9月1日、鹿児島入りすると、辺見は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た西郷軍では9月4日、貴島率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていたので、編制を小隊(各隊20?30名)に改めた上で以下のように諸隊を部署した。

狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警備
城山方面 ─ 小隊長藤井直次郎
岩崎本道方面 ─ 小隊長河野主一郎
私学校・角矢倉方面 ─ 小隊長佐藤三二
県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔
大手・本田屋敷方面 ─ 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎
上の平・広谷・三間松方面 ─ 小隊長河野四郎左衛門
新照院・夏陰下方面 ─ 小隊長中島健彦
夏陰 ─ 小隊長岩切喜次郎
後廻 ─ 小隊長園田武一
後廻・城山間 ─ 小隊長市来矢之助
官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。この頃の官軍の配備は以下のようになっていた。

丸岡・浄光明寺・上の原 ─ 第二旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 ─ 第三旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
多賀山・鳥越坂・桂山 ─ 第四旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
甲突川・西田橋・朽木馬場 ─ 別働第一旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
下伊敷 ─ 別働第二旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
米倉方面 ─ 警視隊(本営米倉)
西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。

今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。
翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。

9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。

西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。

午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている。これが正しいようだ)。

西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。

2009年01月20日

ロボット (robot)

ロボット (robot) とは、人の代わりに何等かの作業を行う装置、若しくは「人のような」装置のことである。

機械としてのロボットとは、主に以下の意味に大別される。

ある程度自律的に連続した自動作業を行う機械。例・産業用ロボット、ロボットカー
人に近い形および機能を持つ機械。『機動戦士ガンダム』や『鉄腕アトム』等のSF作品に登場するようなもの。いわゆる「機動兵器」や「人造人間」等。
なお、人の代わりになんらかの作業を行う装置の場合、ある程度の工程なり手順なりを自動的かつ連続的に行う物であり、単一の動作を行う物や、絶えず人間が操作をする必要がある物はロボットの範疇には含まれない。許容される範疇における限定された物ではあるが、状況を判断して自動的に連続して作業を行う物とされる。しかし単純に与えられた条件に対して所定の、あるいは繰り返しの動作を行う機械装置との境界は曖昧で、明確に定義・区分することは出来ない。例えば自動販売機は、人間の仕事(業務)を代行する装置であるが、これをロボットとみなすかどうかは、人によってまちまちである。

その一方で、人の形をした機械装置であれば手動操作であってもロボットの範疇に含む場合もある。とはいえ、操り人形の類は何かの作業を目的とした装置ではないし、まして自動的に動作する物でもないためロボットとは言えないが、予め設計された一連の動作を特定の操作をきっかけとして行うオートマタやからくり(からくり人形)等に、今日あるロボットの原型を見出す事ができるため、間接的にオートマタやからくり人形をロボットの一種と見なす事も可能である。同時に、モーター等の動力が内蔵され機械的または電気的に人間の操作を伝達して動作するマニピュレーターも、ロボットの一種と見なされる。また、昨今ではコンピュータ言語によるプログラムも、ロボットとして扱われることがある。こちらは物体としては存在しないが、「人の代わりになんらかの作業を、ある程度の工程なり手順なりを自動的かつ連続的に(かつ効率的に)行うもの」という定義からすれば、あながち間違いとも言えないであろう。

前述の定義から考えれば、「人の代わりに作業を行う」ものが本来のロボットであり、操縦者が搭乗する必要性があるブルドーザーやショベルカーなどは原則としてロボットとは言えない。しかし、パワードスーツなどを含めた「人の形をした乗り物または作業用機械」については、操縦者が搭乗する必要性があっても一般的にはロボットと呼ばれている。特に最近は、それらの作業機械でも高度な自動制御技術の導入が進み、人間が操縦者から単なる作業指示・命令者に近づきつつある事から、一層境界が曖昧になって来ている。
アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート

古くからある概念であり、非常に多岐に渡るイメージを含む事もあって、往々にしてその定義は曖昧である。

語源
チェコスロヴァキア(現在のチェコとスロヴァキアになる前の国)の小説家カレル・チャペックが創作し、1921年に発表した戯曲『R.U.R.』(エル・ウー・エル)の中で使用したものが広まり、一般的に使用されるようになった。ただし『R.U.R.』に出てくるロボットは機械ではなく、今で言う人造人間である(正確には、「生きている」化学物質を加工して様々なパーツを作り、そのパーツを組み合わせた、機械に近いもの)。語源はチェコ語で「労働」を意味するrobotaとされている。また、チャペック曰くロボットの着想にはゴーレム伝説が影響している。

「ロボット」という言葉を作ったのはカレル・チャペック自身ではなく、カレルの兄で画家のヨゼフ・チャペックである。カレル・チャペックがR.U.R.のあらすじをヨゼフに話し、彼にどのような名前にしたらよいだろうかと聞いてみたところ、ヨゼフが口に絵筆をくわえてもごもごとした口調で「ロボット」はどうだろうかと答えたという。(異説あり)

自動機械のロボット
 自動機械がロボットと呼ばれるためには目的・結果を入力・命令すると、自動で結果・目的が実現される必要がある。
 インターネットの情報を自動検索するソフトウエアはロボット検索と呼ばれる。検索を命令すると結果・情報が返されるからである。
 据え置き型の製造機械も結果・製造物を生産する、産業用ロボットと呼ばれる。
 それらロボットが動かない限り、ロボットと呼ばれる自動機械であり人間社会に与える影響も旧来の自動機械と同等と考えられる。
 しかし、すでに、一部では(歩行する人間型の物ではないにせよ)自動的に建物内を巡回・警備するロボットがレンタル開始されたり、病院内の物資運搬にロボットカートが採用さたり、自動車の自動運転という意味のロボットカーなど、非人間型ロボットを中心に、移動する自動機械が人間社会のなかに動き始めた。
これからは人間社会は移動するロボットからの影響を受けることが想像される。