奇兵隊指揮長野村忍介は、5月10日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。12日に先発の4箇中隊が延岡を出発して重岡、13日に竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。14日には後続の4箇中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。このように豊後攻略は順調に進展した。しかし、政府軍は15日に熊本鎮台と第一旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。両軍の激戦は10数日におよび、29日に竹田は陥落して政府軍の手に落ちた。奇兵隊は6月1日に臼杵を占領したが、6月7日の野津道貫大佐の指揮する4箇大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により6月10日に敗退した。こうして北方から圧力を受けた奇兵隊は6月22日、本拠地を熊田に移した。
野尻方面
破竹隊は小林を守備していたが、7月11日、官軍第二旅団によって占領された。官軍はさらに軍を進めて薩軍と21日から野尻で交戦したが、薩軍は疲労のため勢いをなくし、別働第二旅団が翌22日に野尻を占領した。
宮崎方面
7月24日、第三旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第一旅団は末吉を攻撃し、別働第二旅団は財部を攻撃した。そしてついに第三旅団・別働第三旅団・第四旅団が都城を陥落させた。7月25日、薩軍の中島や貴島らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第三旅団に敗北した。 この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。
薩軍は都城敗退後、官軍の北・西・南からの攻撃に備え、宮崎を中心に諸隊を以下のように配置した。
宮崎方面 ─ 桐野利秋・村田新八・別府晋介・島津啓二郎
常山隊(指揮長平野正介)・狙撃隊(中隊長小倉壮九郎)・宮崎徴募隊
延岡・三田井・豊後方面 ─ 池上四郎
奇兵隊(指揮長野村忍介)・中津隊(中隊長増田宋太郎)・正義隊(指揮長高城七之丞)
学の木・清武方面
雷撃隊(指揮長辺見十郎太)・振武隊(指揮長中島健彦)・破竹隊(指揮長河野主一郎)・行進隊(指揮長相良長良)・鵬翼隊(指揮長新納精一)・熊本隊(大隊長池辺吉十郎)・協同隊(中隊長有馬源内)・加治木隊
天包山・尾泊方面
干城隊(指揮長阿多壮五郎)・佐土原隊(司令鮫島元)・志布志隊(中隊長堀木井喜蔵)
飫肥方面
飫肥隊(司令川崎新五郎)
佐土原方面
佐土原隊
高鍋方面
高鍋隊(司令坂田諸潔)
7月27日、別働第三旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第二旅団は7月28日、別働第二旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。辺見・中島・河野主一郎・相良長良らの防戦により官軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、官軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。
都城・飫肥・串間をおさえた第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は7月30日、宮崎市の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。7月31日、第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため官軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、 宮崎から撤退したため、官軍は宮崎市を占領した。次いで第二旅団により佐土原も占領した。
そこで宮崎市・佐土原と敗北した薩軍は、桐野をはじめ辺見、中島・貴島・河野主一郎らの諸隊と、池辺の熊本隊、有馬が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて官軍の進撃に備えた。これに対し官軍は、広瀬の海辺から第四旅団・第三旅団・第二旅団・別働第二旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第三旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。
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8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一の瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。
人吉が陥落した後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めていたが、7月23日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。7月29日、越の尾を攻めてきた官軍にまたも敗退した。8月2日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受け、美々津に向かった。
美々津方面
8月2日に高鍋を突破され敗退した薩軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。
別働第二旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。薩軍は渡川、鬼神野から退いて、8月6日、山蔭の守備を固めた。西郷はこの日、各隊長宛に教書を出し奮起を促した。
8月7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第二旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。官軍はそのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。薩軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。
延岡方面
官軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第二旅団が8月14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第三・四旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は自ら陣頭に立ち、官軍と雌雄を決しようとした。この時の薩軍(約3,000?3,500名)は和田峠を中心に左翼から以下のように配置していた(『大西郷突囲戦史』に依る)。
友内山・無鹿山方面(2箇中隊)
伊東直二(奇兵隊)
神楽田・和田峠(7箇中隊)
相良長良(行進隊)・河野主一郎(破竹隊)・平野正介(常山隊)・阿多壮五郎(干城隊)・新納精一(鵬翼隊)・高城七之丞(正義隊)
和田峠北・小梓峠
山崎定平(熊本隊)
小梓峠・長尾山
野村忍介(奇兵隊)・増田宋太郎(中津隊)・重久雄七(奇兵隊)
また長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5箇中隊を配備し、北部の熊田には小倉処平・佐藤三二が指揮する5箇中隊を配備して熊本鎮台兵に備え、予備隊として使用するつもりであった。
対する官軍(約50,000名)は山県参軍指揮のもと、延岡から北嚮きに
右翼
方財島方面 ─ 新撰旅団
中央
無鹿方面 ─ 第四旅団
和田峠・堂坂方面 ─ 別働第二旅団
左翼
長尾山方面 ─ 第三旅団
と攻撃主力を部署し、西部の可愛岳(えのたけ)山麓には
可愛岳南麓 ─ 第三旅団
可愛岳西麓 ─ 第一旅団
熊田の北部には
熊本鎮台・別働第一旅団2箇中隊
と配備し、薩軍を包囲殲滅しようとした。
8月15日早朝、西郷は桐野・村田新八・池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。一方山県参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。当初、別働第二旅団は堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦しんだ。これを好機と見た桐野が決死精鋭の1隊を率いて馳せ下り攻撃したために別働第二旅団は危機に陥った。しかし、第四旅団の左翼が進出して別働第二旅団を救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。やがて官軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は官軍を迎え撃ったが苦戦した。辺見と野村忍介が援兵を送り熊本隊を支援したが、官軍は守備を突破した。激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍はやがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に官軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。
可愛岳突囲
8月15日、和田越の決戦に敗れた西郷軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。8月16日、西郷は解軍の令を出した。
我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。
これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残った。一度は決戦と決したが、再起を期すものもあり、選択に迫られた首脳は8月17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島をおき、池上・別府晋介は約60名を率いて西郷を護衛した(「鎮西戦闘鄙言」では村田・池上が中軍の指揮をとり、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。この時の突囲軍は精鋭300?500(『新編西南戦史』は約600名)であった。17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手薄であったため、西郷軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた官軍の第一・第二旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため西郷軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。
山岳部踏破と帰薩
可愛岳を突破した西郷軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。その後、西郷軍は19日には祝子川の包囲第2線を破り、翌20日に鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進んだ。21日、西郷軍は三田井へ到着するが、ここで桐野は官軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから薩軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷はこれを却下し、22日深夜、西郷軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。
これに対し、西郷軍による可愛岳突破に衝撃を受けていた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける西郷軍の前に失敗に終わった。これは、西郷軍の行動が始めから一定の目的に従っていたわけではなく、その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったということも一因であった。
8月24日、西郷軍は七山・松ヶ平を抜け、神門に出たが、ここで別働第二旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れ、26日には村所、28日には須木を通過し、小林に入った。同日、薩軍は小林平地からの加治木進出を図るが、西郷軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第二旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。迂回を余儀なくされた西郷軍は9月1日、官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。
城山籠城戦
城山籠城戦
戦争:
年月日:1877年
場所:
結果:官軍の勝利(西南戦争終結)
交戦勢力
官軍 薩軍
指揮官
山縣有朋 西郷隆盛
桐野利秋など
戦力
約50000人 約370人
損害
‐ 西郷・桐野を含め全滅
9月1日、鹿児島入りすると、辺見は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た西郷軍では9月4日、貴島率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていたので、編制を小隊(各隊20?30名)に改めた上で以下のように諸隊を部署した。
狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警備
城山方面 ─ 小隊長藤井直次郎
岩崎本道方面 ─ 小隊長河野主一郎
私学校・角矢倉方面 ─ 小隊長佐藤三二
県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔
大手・本田屋敷方面 ─ 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎
上の平・広谷・三間松方面 ─ 小隊長河野四郎左衛門
新照院・夏陰下方面 ─ 小隊長中島健彦
夏陰 ─ 小隊長岩切喜次郎
後廻 ─ 小隊長園田武一
後廻・城山間 ─ 小隊長市来矢之助
官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。この頃の官軍の配備は以下のようになっていた。
丸岡・浄光明寺・上の原 ─ 第二旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 ─ 第三旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
多賀山・鳥越坂・桂山 ─ 第四旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
甲突川・西田橋・朽木馬場 ─ 別働第一旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
下伊敷 ─ 別働第二旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
米倉方面 ─ 警視隊(本営米倉)
西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。
今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。
翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。
9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。
西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。
午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている。これが正しいようだ)。
西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。